2012年2月6日
2月3日に、市川團十郎丈が亡くなった。
市川宗家にとって、節分に成田山で豆まきをするのは恒例で、
その日が彼の命日になるとは、何とも運命的である。
勘三郎、團十郎と立て続けに二人の大切な人を亡くしてしまったが、
勘三郎の死が
「歌舞伎の未来」の喪失を予感させる嘆きを生じさせたとするならば、
團十郎の死には
「歌舞伎のいま」の瓦解をひたひたと感じさせるような
そんなうすら寒さを覚えるのである。
勘三郎は、芸と自分を行き来する人だった。
團十郎は、組織の真ん中にいた人だった。
その違いが、
松竹の株価にまで影響を及ぼしたのだと思う。
誰にでも公平な人だったという。
公平すぎて「嫉妬を覚えるときもあった」と海老蔵は言う。
香川照之に対して
「私が後見になりましょう」と言って猿翁に安堵を与えた人だ。
市川宗家を継ぐ者でありながら、
19歳で親を亡くし、苦労した人らしい優しさがあった。
人にわかりやすく説明するのがうまく、
またそういうことを楽しそうにする人だったともいう。
科学が好きで、宇宙が好きで、家には望遠鏡があって、
歌舞伎のことも、自分のことも、病気のことも、世界のことも、
大きな視点から俯瞰するだけの度量を持っていた。
「歌舞伎の荒事(あらごと)」とは「江戸庶民の厄を祓う儀式」であり
「市川團十郎」とは「江戸の守り神」であり、
自分はいつもそういう気概をもって舞台に立っているとおっしゃっていた。
スーツ姿でいても、眼力に圧倒される人だった。
「白血病を克服して舞台に復帰」などと
たった1行で語ってしまいがちだが、
彼の本を読めば、
何をもって「無間地獄」と表したのかを思い知る。
これからは、本当に神様になって
江戸の私たちを、新しい歌舞伎座を、
天から見守ってくださるはずだと
そんな厚かましい確信が私にはある。
鋭くて、温かいあの目の記憶が、そう思わせるのである。
彼の訃報を聞いた直後の率直な感想は、もう一つのブログのほうに書きました。
彼の書いた闘病記「團十郎復活」についてはこちら
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