「かがみの孤城」と「便利屋斎藤さん」を観て、転生ものについて考えた

あけましておめでとうございます。
本年もどうぞよろしくお願いいたします。

今年最初の投稿は、「転生もの」について考えさせられたことを書いていきます。

まずは「かがみの孤城」というアニメ映画について。
学校に行けなくなった中学生の女の子が、鏡の中の世界で仲間との付き合い方を学び、成長していく物語です。

最近のアニメは「転生もの」花盛り。ここには現実の世の中を舞台に物語を紡ごうとすると、「親ガチャ」「貧富の差の固定化」など、八方塞がりなことがほとんどで、夢や希望を持つ結末を考えにくいという側面もあるかもしれません。
また、今の若い子たちにとって転生ものは、「ゲームの世界のキャラになる」の延長上として、逆に自然なことなのでしょう。

でも私はずっと思っていた。
「ちょっと安易すぎないか? 転生したらすべて解決しちゃうの?」
その疑問に答えてくれたのが、
「かがみの孤城」と「便利屋斎藤さん、異世界に行く」です。

「かがみの孤城」も現実と異界を行き来するという意味で転生ものの一種ですが、私はとても好感を持ちました。それは、「転生しても違うキャラにはならない」という点です。
急に魔法が使えるようになったり、急にもてはやされたり、急に王女様になってかしづかれたり、そういう飛躍がありません。鏡の向こうに行っても、少女は自分の心を開くのが難しく、新しい人間関係を前に行ったり来たりします。

そんな中でも少しずつ、一歩ずつ階段を上ることができたのは、現実の世界でも彼女が「なんとかしたい」と思っていたからであり、どの世界にいても、成長を待つ時間が必要だということを、この映画は教えてくれました。

もう一つ、テレビアニメ「便利屋斎藤さん、異世界に行く」も面白いです。便利屋家業の気弱な青年・斎藤さんが魔法世界に転生しますが、彼は魔法が使えません。自己肯定感の低い斉藤青年は、魔法世界の人間関係の中で、自分が持っている能力(何でも修理できる)がいかに人々を幸せにするかを知ることになります。転生しても、新しい能力が急に身につくわけではなく、今持っている物をいかに使うか。能力だけではありません。優しさとか親切さとか、そういうものも含めて再認識させる物語でした。

こういうお話こそ、21世紀の今だからこそ作れる物語だと思います。
興味を持ったら、ぜひ見てみてくださいませ。「かがみの孤城」は原作本もとても評価されています。

(この文章は、文章シェルパ仲野マリのメールマガジンで発信したものに加筆修正して投稿しました)

 

 

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